SSブログ
駒・馬の話 ブログトップ
- | 次の10件

汗血馬(追加) [駒・馬の話]

                        田口計介
 汗血馬について以前報告したが、その後私の資料に加藤九祚先生の著『シルクロード文明の旅』があり、その記述に岩絵の汗血馬があった。是非この岩絵(加藤先生撮影)の馬も紹介します。

img036.jpg
アラワンの「汗血馬」の岩面画。フェルガナ盆地(大宛)の東側にあり、考古学者ベルンシュタムは『史記』の汗血馬をあらわすものと考えた。これは岩面画を3週間かかってコピーしたもの。実物の大きさは、雄の場合、耳の間から尾のつけ根まで113センチ、脚先から背中まで93センチ。――加藤九祚『シルクロード文明の旅』

パジリク古墳群の「乗馬する男」 [駒・馬の話]

パジリク古墳群の「乗馬する男」
                        田口計介
 1930年モスクワで、パジリク古墳の第一次発掘(1927年、隊長S・I・ルデンコ)の出土品を見たとき梅原末治(京都大学名誉教授、1893~1983)は「一見古代の遺品とするに躊躇せしめる程であった」と述べている。考古学の泰斗・梅原博士が第二次(隊長同じくルデンコ、1947~49年)の発掘品「乗馬する男」を見たならば、どんなコメントを残したであろうか。

img033.jpg

img034.jpg

 パジリク古墳群はロシア連邦、南シベリアのアルタイ共和国ウラガン郡、アルタイ山脈の西側の山地のステップ性盆地(標高1600m)にある。この古墳群の埋葬者はスキタイ・サカ族の有力者であった。この地方は永久凍土滞ではないが、古墳を築造した時期、紀元前3世紀前半は一時的に小気候的条件(ミクロクリマート)で、凍結した古墳群の遺品を保護した。また、こんな辺地の古墳にもかかわらず、第2号墳を除くすべての墳墓(大型4基、小型9基)が盗掘されていた。幸いなことに彼らは金、銀製品などを盗んだが多くの貴重な陪葬馬等の遺品が残された。
 馬は来世に送られる埋葬者の陪葬であり、闘斧で頭蓋を打たれて殺されていた。これらの馬は背の低い普通の馬と並んで、パルティアやバクトリアの優秀な軍馬に劣らない良種の温血の馬もいた。陪葬馬は兵卒の古墳では2~3頭、貴族の墳墓では最高16頭であった。これらの馬はすべて去勢馬であり、牝はいない。馬の出土の意義は、装飾品を伴う鞍、馬勒などから当時の生活状況を知ることができる。

ロシア 025.jpg
「乗馬する男」

 超目玉の圧巻は同じく第5号墳の槨室壁の掛け毛氈(フエルト)に織り込まれた「乗馬する男」である。この毛氈はラクダの毛と羊毛の組合せであり、1平方cmで23本×23本という丈夫な織物であった。世界の絨毯業界では、この絨毯を世界最古だとしている。
 また、毛氈の「乗馬する男」、一見中世、西洋の武具を脱いだ紳士にも見てとれる。だが、日本では縄文時代晩期、中国では秦、インドではアショーカ王のころの作品である。

img035.jpg
第5号墳出土の馬車

 第5号墳の馬車は轂(こしき、70cm)、34本の輻(や、1.5m)を持つ2頭立ての四輪車である。
 パジリク古墳群などアルタイ、シベリアからの出土品は、すべてサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に収納されている。嬉しいことに、美術館の展示ヤードの考古部門にはパジリク室があり、ここで紹介した出土品をすべて見ることができる。

yjimage.jpg
加藤九祚先生

 わが国でパジリク古墳を調べると、その資料の少なさに驚く。その少ない資料のほとんどは加藤九祚先生(1922~2016)の訳書に辿りつく。加藤先生は国立民族学博物館の名誉教授であり、シルクロード研究の国際的大家である。本小文もパジリク古墳の第1次、第2次発掘隊長のルレンコ(1885年生まれ)の論文「パジリク古墳の秘宝」を加藤先生が訳されたものを下敷きにしている。蛇足ながら、加藤先生は小生の飲酒、特にウオッカの師であった。

汗血馬 [駒・馬の話]

汗血馬
                               田口計介
 
img032.jpg
 汗血馬という名前の馬をご承知の方は、超シルクロード通である。また、ウマの博識である。
 汗血馬が最初に登場するのは、中国の最初の正史である『史記』である。『史記』は司馬遷(bc145/135~87/86)が、黄帝から前漢の武帝までのことを紀伝体で記述した史書であり、紀元前91年頃に完成した。
 その「大宛列伝」に「大宛在匈奴西南。在漢正西。去漢可萬里。其俗土著、耕田、田稲・麦。有葡萄酒。多善馬、馬汗血。其先天馬子也。」とある。この意は「大宛は稲、麦、葡萄を作る農業国だが、天馬と称される馬の子孫で血の汗を流す優秀な馬が多数いる」である。大宛とは現ウズベキスタン東部、キリギスの西部地方一帯のフェルガナである。
 漢の武帝(bc140~86)は大月氏に使いした張騫の報告により汗血馬を知り、大宛に汗血馬の譲渡を求めた。最初は通商で、2度目は弐師将軍の李広利が武力で、いずれも失敗した。3度目は再度李広利が6万の兵力で大宛を攻め、弐師城にいた駿馬(汗血馬)数十頭、中等以下の牡牝三千余頭を獲得した。
 さて、汗血馬とはどんなウマなのか。また『史記』に書かれた弐師城、郁成城、『漢書』(後漢の班超の撰で、82年頃成立)にあらわれる貴山城とはどこであるのかなどが、洋の東西の大学者の間で議論され続けてきている。
 汗血馬の血の汗については、フランスの中央アジア研究者のリュセット・ブルノが「馬の背中のあたりの皮膚の下に寄生し、2時間くらいの間に破裂して出血する小さな腫物を作ってしまう寄生虫が原因」と報告(『絹文化の起源をさぐる』、原著『History of the Formen Han dynasty』1938)している。
 フエルガナ一帯の汗血馬は、ウマの現世種の祖2種のタルパン(20世紀初頭に絶滅)のうちの高原系で毛が短くて軽く早いタイプに属すとされ、中央アジアから中近東に拡散してアラブ馬となり、さらに進化させられたのがサラブレットである。
 汗血馬を想起させる馬は中国甘粛省武威雷台出土の「飛燕を踏む銅奔馬」であり、トルクメニスタン原産の國章にのる愛称黄金の馬・アハルテケ(体高144~163cm)が汗血馬に最も近いとされている。
img031.jpg

 弐師城、郁成城、貴山城の位置であるが、「大宛の属邑大小70余城」、「漢と大宛の戦闘四十余日、大宛の勇将が漢に捕えられ、大宛の兵は中城に入る」、「漢の上官桀は、郁成城を攻め落とし、郁成王は逃れて康居に至る」(『史記』)、「大宛国は、王が貴山城に治し」(『漢書』)などの記述がある。一般に弐師城と貴山城は同一と理解されているが、弐師城では大宛王母寡(もか)は漢に降伏するために部下の貴族により首を切られ、次の漢が据えた王昩蔡(まつさい)も同じく殺されている、貴山城主は母寡の弟の蝉封(ぜんふう)であり、どうも二つの城は時間を異にしていて同じではない。貴族との対立で、蝉封が居城を属邑70余城の一つに、弐師城から貴山城に移したと思われる。
 各研究者の三つの城の比定地は
 弐師城 マルギラン(藤田豊八、長澤和俊)
     コーカンド(リュセット・ブルノ)
     玄奘が訪ねた窣堵利瑟那(ストリシナ)=Uratube(白鳥庫吉)
 育成城 オシュまたはアクシカト(長澤和俊)
 貴山城 ホージェント(桑原隲蔵)
     カーサーン(白鳥庫吉、藤田豊八)
などである。
- | 次の10件 駒・馬の話 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。