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パジリク古墳群の「乗馬する男」 [駒・馬の話]

パジリク古墳群の「乗馬する男」
                        田口計介
 1930年モスクワで、パジリク古墳の第一次発掘(1927年、隊長S・I・ルデンコ)の出土品を見たとき梅原末治(京都大学名誉教授、1893~1983)は「一見古代の遺品とするに躊躇せしめる程であった」と述べている。考古学の泰斗・梅原博士が第二次(隊長同じくルデンコ、1947~49年)の発掘品「乗馬する男」を見たならば、どんなコメントを残したであろうか。

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 パジリク古墳群はロシア連邦、南シベリアのアルタイ共和国ウラガン郡、アルタイ山脈の西側の山地のステップ性盆地(標高1600m)にある。この古墳群の埋葬者はスキタイ・サカ族の有力者であった。この地方は永久凍土滞ではないが、古墳を築造した時期、紀元前3世紀前半は一時的に小気候的条件(ミクロクリマート)で、凍結した古墳群の遺品を保護した。また、こんな辺地の古墳にもかかわらず、第2号墳を除くすべての墳墓(大型4基、小型9基)が盗掘されていた。幸いなことに彼らは金、銀製品などを盗んだが多くの貴重な陪葬馬等の遺品が残された。
 馬は来世に送られる埋葬者の陪葬であり、闘斧で頭蓋を打たれて殺されていた。これらの馬は背の低い普通の馬と並んで、パルティアやバクトリアの優秀な軍馬に劣らない良種の温血の馬もいた。陪葬馬は兵卒の古墳では2~3頭、貴族の墳墓では最高16頭であった。これらの馬はすべて去勢馬であり、牝はいない。馬の出土の意義は、装飾品を伴う鞍、馬勒などから当時の生活状況を知ることができる。

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「乗馬する男」

 超目玉の圧巻は同じく第5号墳の槨室壁の掛け毛氈(フエルト)に織り込まれた「乗馬する男」である。この毛氈はラクダの毛と羊毛の組合せであり、1平方cmで23本×23本という丈夫な織物であった。世界の絨毯業界では、この絨毯を世界最古だとしている。
 また、毛氈の「乗馬する男」、一見中世、西洋の武具を脱いだ紳士にも見てとれる。だが、日本では縄文時代晩期、中国では秦、インドではアショーカ王のころの作品である。

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第5号墳出土の馬車

 第5号墳の馬車は轂(こしき、70cm)、34本の輻(や、1.5m)を持つ2頭立ての四輪車である。
 パジリク古墳群などアルタイ、シベリアからの出土品は、すべてサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に収納されている。嬉しいことに、美術館の展示ヤードの考古部門にはパジリク室があり、ここで紹介した出土品をすべて見ることができる。

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加藤九祚先生

 わが国でパジリク古墳を調べると、その資料の少なさに驚く。その少ない資料のほとんどは加藤九祚先生(1922~2016)の訳書に辿りつく。加藤先生は国立民族学博物館の名誉教授であり、シルクロード研究の国際的大家である。本小文もパジリク古墳の第1次、第2次発掘隊長のルレンコ(1885年生まれ)の論文「パジリク古墳の秘宝」を加藤先生が訳されたものを下敷きにしている。蛇足ながら、加藤先生は小生の飲酒、特にウオッカの師であった。
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