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汗血馬 [駒・馬の話]

汗血馬
                               田口計介
 
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 汗血馬という名前の馬をご承知の方は、超シルクロード通である。また、ウマの博識である。
 汗血馬が最初に登場するのは、中国の最初の正史である『史記』である。『史記』は司馬遷(bc145/135~87/86)が、黄帝から前漢の武帝までのことを紀伝体で記述した史書であり、紀元前91年頃に完成した。
 その「大宛列伝」に「大宛在匈奴西南。在漢正西。去漢可萬里。其俗土著、耕田、田稲・麦。有葡萄酒。多善馬、馬汗血。其先天馬子也。」とある。この意は「大宛は稲、麦、葡萄を作る農業国だが、天馬と称される馬の子孫で血の汗を流す優秀な馬が多数いる」である。大宛とは現ウズベキスタン東部、キリギスの西部地方一帯のフェルガナである。
 漢の武帝(bc140~86)は大月氏に使いした張騫の報告により汗血馬を知り、大宛に汗血馬の譲渡を求めた。最初は通商で、2度目は弐師将軍の李広利が武力で、いずれも失敗した。3度目は再度李広利が6万の兵力で大宛を攻め、弐師城にいた駿馬(汗血馬)数十頭、中等以下の牡牝三千余頭を獲得した。
 さて、汗血馬とはどんなウマなのか。また『史記』に書かれた弐師城、郁成城、『漢書』(後漢の班超の撰で、82年頃成立)にあらわれる貴山城とはどこであるのかなどが、洋の東西の大学者の間で議論され続けてきている。
 汗血馬の血の汗については、フランスの中央アジア研究者のリュセット・ブルノが「馬の背中のあたりの皮膚の下に寄生し、2時間くらいの間に破裂して出血する小さな腫物を作ってしまう寄生虫が原因」と報告(『絹文化の起源をさぐる』、原著『History of the Formen Han dynasty』1938)している。
 フエルガナ一帯の汗血馬は、ウマの現世種の祖2種のタルパン(20世紀初頭に絶滅)のうちの高原系で毛が短くて軽く早いタイプに属すとされ、中央アジアから中近東に拡散してアラブ馬となり、さらに進化させられたのがサラブレットである。
 汗血馬を想起させる馬は中国甘粛省武威雷台出土の「飛燕を踏む銅奔馬」であり、トルクメニスタン原産の國章にのる愛称黄金の馬・アハルテケ(体高144~163cm)が汗血馬に最も近いとされている。
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 弐師城、郁成城、貴山城の位置であるが、「大宛の属邑大小70余城」、「漢と大宛の戦闘四十余日、大宛の勇将が漢に捕えられ、大宛の兵は中城に入る」、「漢の上官桀は、郁成城を攻め落とし、郁成王は逃れて康居に至る」(『史記』)、「大宛国は、王が貴山城に治し」(『漢書』)などの記述がある。一般に弐師城と貴山城は同一と理解されているが、弐師城では大宛王母寡(もか)は漢に降伏するために部下の貴族により首を切られ、次の漢が据えた王昩蔡(まつさい)も同じく殺されている、貴山城主は母寡の弟の蝉封(ぜんふう)であり、どうも二つの城は時間を異にしていて同じではない。貴族との対立で、蝉封が居城を属邑70余城の一つに、弐師城から貴山城に移したと思われる。
 各研究者の三つの城の比定地は
 弐師城 マルギラン(藤田豊八、長澤和俊)
     コーカンド(リュセット・ブルノ)
     玄奘が訪ねた窣堵利瑟那(ストリシナ)=Uratube(白鳥庫吉)
 育成城 オシュまたはアクシカト(長澤和俊)
 貴山城 ホージェント(桑原隲蔵)
     カーサーン(白鳥庫吉、藤田豊八)
などである。
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コメント 1

梅林ガール

博識の馬の話には就いていきにくいですねー
難しすぎです。
by 梅林ガール (2017-04-01 21:37) 

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