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ウマ・うま・馬百態 その9 西洋画巨匠の馬 [駒・馬の話]

田口計介

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ジェリコー 「ジアウール」(Giaour)1820年

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ドラクロア 「野生の馬」1828年

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マネ 「競馬」1872年

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ロートレック 「騎手」1899年

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ルオー 「騎馬行」1910年

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カンディンスキー 「赤の前の二人の騎手」1911年

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ピカソ 「ピカドールと馬」1959年

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ウマ・うま・馬百態 その8 北朝鮮高句麗壁画古墳の馬 [駒・馬の話]

田口計介

北朝鮮高句麗壁画古墳の馬

 北朝鮮の金正恩、アメリカのトランプはいずれも狂人。
 もし、何かの誤解で戦争になれば高句麗古墳は消滅し、
 この馬たちも消えてゆく。

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ウマ・うま・馬 百態 その7 アテネ国立博物館のカタログ [駒・馬の話]

田口計介

紀元前 古代ギリシャの馬

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ウマ・うま・馬の百態 その6 古代の戦車 [駒・馬の話]

田口計介

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1 シュメールの戦車(シュメール人が戦車を発明)

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2 ヒッタイトの戦車(本格的な戦いに使用)

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3 ペリシテの戦車(海の民と呼ばれる)

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4 エジプトの戦車

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5 カナンの戦車(通商の民と呼ばれる、聖書に記述)

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6 新ユダの戦車
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ウマ・うま・馬の百態 その5 [駒・馬の話]

シエーナのパーリオ(裸馬競馬)
田口計介

 イタリアの中部、トスカーナ州シエーナ県シエーナは、イタリアが誇る13~14世紀に都市建設を行った中世都市(世界遺産)である。
 そのシエーナのカンポ広場は、最古の開催が13世紀とされる裸馬競馬・パーリオの会場である。
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 パーリオとは競馬の優勝旗のことであり、毎年競馬はいずれも聖母マリアに関わる7月2日と8月16日の2回行われる。
 鞍や鐙はな鳴く、10コントラーダ(地区)・10頭立の手綱のみで石畳の1周300mのコースを3周する。
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 ただそれだけの競馬であるが、イタリアを代表する祭りである。
 私と妻は、2007年この1分弱の競馬を見るためにシエーナに出掛けている。


ウマ・うま・馬の百態 その4 [駒・馬の話]

15~19世紀の西洋絵画のペガサス

田口計介

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ウマ・うま・馬の百態 その3 [駒・馬の話]

その3 有翼の馬ペガサス
田口計介

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1 四頭立て二輪戦車に乗るヘリオス(ギリシャ神話の太陽神)

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2 有翼の馬が曳く馬車 bc7c

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3 ブロンズのペガソス bc575年頃

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4 疾走する2頭の有翼馬 bc520年頃

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5 ペガサス頚飾 bc5c

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6 ペガサスに乗るペレロフォン(ギリシャ神話の英雄)bc5c

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7 下界へ行くぺルセフォネ(ギリシャ神話の女神)

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8 スキタイの飾り板・金 bc4c

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9 金銀象嵌銅車飾り 前漢

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10 龍首水瓶の天馬 7c、小生レプリカ所有

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11 ペルシャ絨毯 7c

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12 唐・順陵の天馬石像 8c

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13 円鏡の天馬

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14 韓国新羅・白樺樹皮製天馬

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15 鳥獣花背円鏡

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16 ルネサンスのペガサス 16c

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17 ウィーンの街角








ウマ・うま・馬の百態 その2 [駒・馬の話]

その2 馬であって、ウマではない
田口計介

ケンタウロス:半人半獣(馬)
ポセイドン(ギリシャ神話):青銅のひずめと黄金のたてがみ、海の主神
ネプチューン(ローマ神話):ポセイドンと同じ
トリトン:ネプチューンの息子

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1 バビロニアのケンタウロス bc2000年

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2 ギリシャのケンタウロス bc443年

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3 ギリシャの英雄・アキレスの教育

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4 ローマの郊外オスティア遺跡の浴場の床のネプチューン

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5 同上、小生が5月16日現地を訪問しての写真

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6 トリトン

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7 ミャンマーの博物館の柵のネプチューン

新シリーズ「ウマ・うま・馬の百態」 [駒・馬の話]

その1 アレクサンドロス大王(bc356~323)と愛馬ブケファロス
                        田口計介

 ウマの家畜化は約6000年前。そして、ウマとヒトは永遠の友だち。
というわけで駒ヶ岳ファンにもおつきあいいただく、新シリーズ。
まずはアレクサンドロス大王(bc356~323)と愛馬ブケファロス関連の画像を紹介。
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1 アレクサンドロスの出身地マケドニアの騎兵・レリーフ

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2 狩りをするアレクサンドロス・ローマ時代の金貨

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3 ブケファロスに乗るアレクサンドロス・ローマ時代ブロンズ

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4 イッソスの戦い(bc333)部分・モザイク

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5 イッソスの戦い・アレクサンドロスとペルシャ王ダレイオス3世・モザイク

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6 ローマ時代・ブロンズ

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7 ローマ時代小像・ブロンズ

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8 ガウガメラの戦い(bc331)・象牙レリーフ

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9 将官姿のアレクサンドロス

馬はいつ渡来したのか [駒・馬の話]

海を渡って馬が来た
                        田口計介
 我が国の馬は朝鮮半島から海を渡って来たことを疑う人はいない。それなら、いつ頃、どんな方法でやって来たのであろうか。古い文献では、縄文時代や弥生時代に日本列島に馬がいたとの記述があるが、間違いである。発掘技術の進歩によって、馬とされる従来の年代の特定はことごとく覆されている。
 1,8万年前に日本列島がユーラシア大陸から分離した後、縄文人(前14,000年頃~前4世紀)は海を介して大陸との交流を始めていた。多分、その手段は筏か丸木船であろう。
 大陸との交流の明確な最初の資料は、『後漢書』(范曄・はんよう編、成立5世紀)に記述されている、それは後漢の光武帝が建武中元2(57)年、倭の使者に下した「漢委奴国王印」である。107年にも倭国王が漢(安帝)に使者を出している。次は、邪馬台国の女王卑弥呼が239年、243年に、壱与が247年に魏へ使者を派遣した。これらの使者がどんな船に乗っていたかの資料は一切ない。
 さて、馬が日本列島に来たことの確認は馬の遺体と馬具による。馬の遺体では、最も古いのは甲府市塩部遺跡で下臼歯24点、切歯点などが出土していて、4世紀第三4半期と報告されている。馬具ではいずれも5世紀始めとされる、熊本県合志市の上生(うぶ)上ノ原3号石棺墓の鑣(くつわ)、同じく八反田2号墳の鑣、兵庫県加古川市の行者塚古墳からの鑣と鏡板である。八反田2号墳からは馬歯も出土している。
 多くの研究者は馬の渡来を5世紀のはじめとしているが、渡来地からの移動(甲府市、合志市、加古川市へ)時間を考慮すると4世紀の半ば以前の渡来とするのが妥当であろう。
 
 次は、海を渡る船である。前述したようにどんな船であったかの資料はないが、各地で出土した舟型埴輪などを参考に、船首・船尾や側板などの部材を組み合わせた準構造船を復元・製作して、航海を行っている。
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 この航海3例は古代船としてのトレースは成功したが、漕ぎ手以外に乗員を載せていなくて朝鮮との往復に使えるとは思われない。実際は、漕ぎ手以外に使者とその従者や中国王朝への貢ぎ物、食料、水を満載できる船であったはずだ。
 筏船で航海を行った報告がある。
・1972年10月 長崎大学、対馬―→唐津、対馬の藻刈り船を改造、漕ぎ手4人と馬1頭、1ノット
・1997年6月 中国浙江大学と韓国東国大学外、中国舟山島(15日)―→韓国仁川(7月8日)、長さ10m、幅5m布製の帆付、漕ぎ手10人
・2016年7月 国立科学博物館・3万年前の人類到来の再現、沖縄与那国島(17日)―→西表島(18日)75km、長さ6,4m、幅1,3m、台湾産の麻竹、「どうなん」号、「シラス」号漕ぎ手各7人乗り、速度2km/hr

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 以上のような限られたデータから推論すると、当初は朝鮮半島からの馬の渡海方法は漕ぎ手5人の2セット、馬2~3頭、水と食料を載せられる竹製の筏であろう。
 諫早直人氏によると「『日本書紀』の記述や石上神宮に伝わる七支刀の銘文から、百済は4世紀後葉の近肖王代(在位346~375年)に、加那諸国の一つである卓淳国を介して倭との通行を開始した。そのような国際環境の変化を背景として、馬匹の輸入開始したのであろう」としている。ほぼ200年後の554年には倭は百済救援のために朝鮮半島に出兵したが、その戦力は兵士1,000人、馬100頭であった。100頭の馬が海を渡ったのである。

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