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徳和渓谷の滝巡り [日々散策]

谷 和代

7月19日、涼を求めて徳和渓谷に行ってきました。
徳和渓谷は乾徳山登山口の先にあります。

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案内図

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夢窓の滝

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荒神の滝

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愛染の滝

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乾門の滝

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白虎の滝

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長尾の滝

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竜神の滝

どれも、余り大きな滝ではありませんが、森林浴と涼しさを堪能しました。

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ヤマユリ

駒のつく神社を訪ねる(7)~浅草寺・駒形堂 [日々散策]

北村健治

 台東区に駒形、墨田区に東駒形の町名があり、境を流れる隅田川には昔の船着場、渡船場「駒形の渡し」に代わって隅田川十三橋の一つ「駒形橋」〔1929(昭和4年)架創:長さ146.27m、幅25.2mの鋼橋で戦後に改修された〕が架かっている。

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駒形橋の由来記(駒形堂の前にある)

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駒形橋西詰北側(「こまがたはし」とある)

 この橋の西詰北側〔雷門二丁目駒形公園内〕に堤防を背にして西向きに立派な「駒形堂」が建てられている。

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浅草寺駒形堂

 西詰南側の歩道脇には江戸期の駒形界隈の情景を描いたレリーフや由来記がある。

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駒形橋西詰南側

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駒形堂の由来記

 駒形(こまがた):寛文(1640年代)江戸図には「こまがた丁」と記されていること、馬頭観世音像を納めた駒形堂による。①川面から見える堂の形が「駒が駆けているように見えた」ことにより「駒かけ」が「駒がた」に転化した(江戸名所記)、②寄進された絵馬を掛ける駒掛け堂の駒掛けから駒がたに転化した(燕石雑記)、③箱根から駒形神を勧請したお堂である(地名辞書)の三説がある。また、初代広重は吉原遊女の恋慕の句「君はいま駒形あたりほととぎず」に因み、「名所江戸百景」に駒形堂の空にホトトギスを配している。

 駒形堂、駒形橋への交通の最寄り駅は、浅草寺玄関である東武浅草駅から5分、地下鉄銀座線・浅草線浅草(雷門)駅から2~3分、駒形橋北詰交差点を一巡りしても、20~30分もあれば回れる。駒形公園:駒形堂境内には、わずかな植樹もあり、句碑・記念碑(由来記)などもいくつか保存されている。

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駒形公園に駒形堂はある

 地名としての駒形は、江戸期から明治初年まで駒形町が使われ(町方書上)、1868(明治元)年東京府、1872(明治5)年浅草駒形町となり(府志料)、1878(明治11)年浅草区に所属、1934(昭和9)年以来浅草駒形1・2丁目、1947(昭和22)年台東区に所属浅草駒形、1964(昭和39)年以降駒形1・2丁目となる。東駒形は町名として1947(昭和22)年本所区に、1966(昭和41)年台東区に所属し、東駒形1・2・3・4丁目としても使われ、またバス停や首都高速道インター、パーキングなどにも広く使われている。老舗「駒形どぜう」もある。

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地下鉄出口案内板にも駒・馬の文字

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案内地図にも駒の字が読める

 参考資料:『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店(1953年)

駒のつく神社を訪ねる(6)~駒繋神社 [日々散策]

北村健治

 世田谷区の駒のつく神社には、上馬の駒留八幡神社と、もう一つ下馬の駒繋神社という立派な社がある。源氏ゆかりの福の神・縁結びの神、世田谷下馬の鎮守・子の神。一心泣き相撲世田谷場所、人形(人型)を船上より大海原(現在は駿河湾)に流す「形代流し神事」などで知られる。

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一心泣き相撲世田谷場所広告

 ご祭神は、大国主命であり、平安時代後期、後冷泉天皇の天喜4(1056)年、源義家公が父頼義公と朝廷の命を受けて、奥州の安倍氏征伐(前九年の役)に向かう途中、このあたりを通りこの社(子の神)に武運を祈願したとの源氏ゆかりの神社である。これ以前に出雲大社から御分霊を勧請し守護神としてお祀りされたと考えられる。創建年代は不詳。
 その後、文治5(1189)年7月、源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、自ら大軍を率いて鎌倉を出立し、この地に至りかつて義家公が当社(子の神)に参拝したことを回想して、愛馬より下りて駒(馬)を境内の松(駒繋松:4代目を育てている)に繋ぎ、農家の姥に「子の明神」での祈願を勧められ、戦勝を祈願したと言われており、ところが頼朝公の芦毛馬が沢にはまり驚き暴れ死んだので供養した(芦毛塚)―馬から下りて沢を引いて渡る村―の故事によりこの一帯を「下馬引沢村」と、「子の神」が「駒繋神社」とも呼ばれるようになった。また、頼朝公は帰途にも戦勝の報告をして、芦毛塚では馬の供養もした。正式には、明治以降に駒繋神社と称せられるようになった。

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「駒繋の松」の碑(松の木がない)

 文化12(1815)年に記された「世田谷紀行」には、「こは、下馬牽澤村に有りて いと古き世の奥つ城(神霊の鎮まるところ)と見ゆ。堀をめぐらしし中に、丘を高うつきなしたるは、奈良の朝よりあなたのつくりざまになんありける。」とあり、神社の下を流れる蛇崩川が、堀をめぐらしたように見え、その中に突き出た神社の姿は、奈良の世より古い時代の趣があったという当時の様子も知ることができ、東京の中でも名社の一つであったことがわかる。蛇崩川は暗渠にされて素晴らしい遊歩道(蛇崩川緑地)になっている。
 昭和32(1957)年には、この神社創建を義家公故事のある天喜04(1056)年として、鎮座九百年式年大祭を、平成19(2007)年には鎮座九百五十年式年大祭を盛大に斎行された。
 芦毛塚には昭和44年8月24日、「芦毛塚の碑」が建設された。
 さて、この神社へは駒留八幡神社から、環状7号線駒留陸橋を潜って、駒留通り、その延長の通りへと歩き、向かって左裏通りが蛇崩川緑地となっている。
 その木陰を拾いながら歩くと約30分(約1.9㎞弱)ほどで東口の鳥居(神明鳥居)の前に出た。

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東口の大鳥居(神明鳥居)

 樹木に覆われた急な石段を上がるとかなり広い境内に出る。

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広い境内

なかなか豪壮な拝殿本殿にお参りする。
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豪壮な唐破風の拝殿の奥に本殿

稲荷神社ほか合祀社もなかなか立派である。

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合祀社(春日鳥居)

境内の南西口には大きな神明鳥居がある。東の鳥居と形が異なることも面白い(寄進者の好みによる)。
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南西口の大鳥居(神明鳥居)

 駒繋の名前も恐らくこの神社のみではなかろうか。地域では小学校・自治会・公園名などに使われている。(青森には麺処「駒繋」というのもあるとか・・・)。

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自治会名にもなっている

 厄除(厄祓)・結婚式・安産・宮参り・七五三詣ほか各種祈願などが案内されている。
 アクセスは、東急世田谷線三軒茶屋駅、東横線祐天寺駅いずれからも徒歩約15分。

駒のつく神社を訪ねる(5)~駒留八幡神社(世田谷百景の一つ) [日々散策]

北村健治

 東京23区内にも駒のつく地名はいくつもある。駒ヶ坂(中野)、駒塚橋(文京)、駒の橋(新宿)、駒場(目黒)、駒込(文京・豊島)、駒形(台東・墨田)、駒沢(世田谷)と多く、ことに駒込のつく地名は実に多い。どれも駒・馬との関わりのある由来を持つと思われる。
 中でも駒沢(こまざわ)は、1889(明治22)年以来の荏原郡駒沢村大字名として下馬引沢・上馬引沢が使われ、1925(大正14)年~1932(昭和07)年に駒沢町の大字名として下馬・上馬が使われた。1932(昭和07)年に世田谷区下馬町・上馬町と表記され、昭和40~43年の改正以後は世田谷区下馬1~6丁目、上馬1~5丁目、駒澤~5丁目との表記になった。
 その由来は頼朝伝説に始まる馬引沢の地名に始まり、江戸時代天保期には馬引沢村一村であったが、後に上馬引沢村・中馬引沢村・下馬引沢村となり、中馬引沢村は1879(明治12)年に上馬引沢村に合併したが、1889(明治22)年には駒沢村の大字中馬引沢となり、1932(昭和07)年以後は三軒茶屋となる。
 旧下馬引沢村は駒繋神社氏子地域として下馬、旧上馬引沢村は駒留神社氏子地域として上馬との駒沢町時代の大字名が使われ、それぞれ現代に至る。駒沢は旧練兵場、公園、オリンピック公園、総合運動場、競技場、小・中学校、大学、駅、通りなどの名前にも広く使われている。

 さて、駒留神社は旧上馬引沢村旧村社として、世田谷区上馬5丁目35番地に南向きに鎮座する。現在の氏子は上馬1~5丁目・三軒茶屋・駒沢1~3丁目に分布し、例祭日は10月15日(神事)、それ以後の週末に諸行事が行われている。サギソウの名前発祥地の伝説がある。
 現在の社は、クロマツの保存木やケヤキなど高木が何本か残されているが、周囲の住宅への配慮なのか、かなりの大枝が切り下されて、境内にはすっかり日差しが降り注いで明るい遊園地のように見える。歴史のある神社としての雰囲気が残念ながら壊されている。

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一の鳥居(木立がなく寂しい)

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二の鳥居(境内が殺風景)

 御祭神は天照大神・応神天皇であり、記録によれば鎌倉時代の1308(徳治03)年、当地の領主北条左近太郎入道成願が、八幡大神を勧請し創建された。成願は御神託により、奉斎する土地を選ぶ際、自らの乗った馬の手綱を緩めて歩かせ、馬が立ち留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられる。

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狛犬の奥に本殿

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立派な神楽殿もある

 また、世田谷城主吉良家との関わりによる厳島神社、三軒茶屋に鎮座していた天祖神社や、稲荷神社、女塚社、御岳社、三峰社、榛名社、菅原社などが広い境内にそれぞれ祀られている。

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由緒ある合祀社の一つ(厳島神社)

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合祀社(菅原・榛名・三峰・御嶽)

 神社名の駒留も他に例がなく珍しい。周辺では中学校・陸橋・通り・バス停・お店・お囃子などの名前に使われている。

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暗渠になった川に橋の名前だけ残る

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通りの名前にもなっている

 最寄駅は、東急世田谷線若林駅で、すぐ東側にある環状7号線に沿って南へ10数分も歩けば、立派な拝殿・本殿を中心として歴史を物語るような狛犬や神楽殿、各境内社の祠などが立ち並んでいる。


勝海舟神社 [日々散策]

田口計介

 5月28日、丹沢の大山を訪問、今年2回目。
山麓の阿夫利神社社務所内に勝海舟神社があるのを教わった。

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勝海舟神社

 一般に、勝海舟は幕末の江戸城無血開城の功績以後は歴史の表舞台から姿を消している。
 神社の隣の「文化集団 天狗講」の説明によると、海舟は日清戦争、台湾併合、朝鮮侵攻に反対している。当時の薩長政権に対しての勇敢な発言であった。

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解説板

 今日の安倍政権の戦争をもたらす憲法改憲、治安維持法に等しい共謀罪法に対し、地下か天井の海舟は如何に怒ることであろうか。

駒のつく神社を訪ねる(4)~幻になった駒形神社 [日々散策]

北村健治

 駒ヶ岳ファンクラブが2007(H19)年に発行した、改訂『全国の駒名の神社リスト』によると、東京都には、駒のつく神社あるいは高麗・狛・巨摩・漢・蒼前神・惣染神などに所縁のある神社は、駒形神社(昭島・八王子)、駒繋神社、駒留神社、虎狛神社(青梅市には虎柏神社があり、柏は誤記されたものとの解説もある)など8社が紹介されている。
 多摩地区では、すでに訪ねた八王子・昭島のほかに、調布・青梅・瑞穂にも紹介された神社があることがわかり、訪ねてみた。

 瑞穂町には、狭山丘陵の西端部分を囲むように武蔵野台地の緩やかな地形面が広がっている。そのかなり広い地区の一つに駒形富士山という地区があり、以前から駒に纏わる何かがあるのではないかと思っていた。またこの一帯から南西方の狭山丘陵の西端に目を向けると地平線に霊峰富士山を望むことが出来る。
 瑞穂町が1974(S49)年に発行した瑞穂町史を開くと、「駒形という地名について」「駒形明神の成立について」「駒形に於ける近世集落の形成」という項が設けられていて面白く、読んでみた。その概略を以下に記す。
 
 1644₋1947(正保年間)にできた官撰の武蔵国図には、この辺りは広く宮寺となっていたが、1645(正保02)年に地頭(1596-1615慶長年代に赴任)二代目大田正忠の時に、初めて栗原河内守重次が明神の神主を地頭から申し付けられ、その時の書状(誓文)には駒形村の氷川明神となっていて、すでに駒形村は成立していた。大田氏の氏神的性格を持って村人たちに維持されていた。

 1705(宝永02)年の検地帳には駒形、その北側を東へ流れるトシシラズカワ(不老川)の左岸に駒形山下・駒形山・駒形山北添の小字が記入された地図の駒形山の中央に鳥居の記号がある。ここにかつて駒形神社が南を向いて鎮座していたと考えられる。そして北・西側の旧二本木村、南側の旧高根村、東側の旧坊村に囲まれた駒形村が存在していた。

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旧駒形村の小字名など(赤点の辻間が250m)

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25000分の一地形図「青梅」より(赤点の辻間が250m)。方位のずれが少しあるが、道の位置は上図とよく合っている。

 1792(寛政04)年に駒形明神の神主栗原山城の書いたものに、神名は氷川大明神であるが社の辺りの地形が駒の形に似ているので駒形の宮と云い、所もこのゆえに駒形村と名付けた。とあり、駒形の名称は地形から生まれた言葉であると言える。
 これら新編武蔵風土記稿(1824-28、文政07-11)以前の記述は、栗原家文書による。

 時代は替わって明治初年には、この瑞穂町一帯は韮山県・入間県、1872(明治05)年から神奈川県、1893(明治26)年に東京府と転々とし、1958(昭和33)年には旧駒形村一帯は埼玉県旧元狭山村大字駒形富士山から瑞穂町に合併した。江戸時代から存在した各旧村々の鎮守社を駒形山の尾根続きで約1500m西方に1918(大正07)年創建された元狭山神社に合祀することとなり、駒形山にあった駒形神社は消滅した。

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祭礼中の元狭山神社の鳥居(正面奥に本殿)

 この元狭山神社の御祭神を表した額(昭和59年4月15日作成)には、駒形神を筆頭に15の神神が列記されている。

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元狭山神社の御祭神を列記した額

 さて、瑞穂町駒形山(旧駒形村)の散策は、雪の富士山が見える冬から、ミツバツツジやカタクリの咲く4月から5月ころまでが最適であり、JR八高線の箱根ケ崎駅から約2.5kmほどの範囲だから、半日くらいの行程で狭山丘陵の西端一帯や残堀川水源地(狭山ヶ池)などを楽しむことができる。

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南西側から見た、駒形山全景

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南東側から見た、駒形山

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駒形神社はこの道の正面当たりにあった

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木立の中にある栗原宮司の屋敷                        

ヒトリシズカ [日々散策]

                        髙田健三

 4月20日、群馬県桐生市の駒形山を登った折り、ヤブコギの最中に、もうすぐ林道
かなというところで、この花を見ました。

 お花に縁のない私は、あれ、この花は何という花か?と、気にかかって写真を1枚
撮影しました。
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 帰宅してもこの花を調べる資料も無いので、そのままになっていましたが、
今日、ブログを見まして、伊達さんの「御前山の春」の記録の中で、この花が
「ヒトリシズカ」だということを教えていただきました。

 これからの山行では、お花に気をつけて登ろうという気がわきました。
KFCブログありがとうございました。



駒のつく神社を訪ねる(3)~長谷にあった駒形社 [日々散策]

                        北村健治

 駒ヶ岳ファンクラブが2007(H19)年に発行した改訂『全国の駒名の神社リスト』に記録されている駒名の神社は、青森県が76社と最も多く、次いで岩手県に46社、長野県には43社と三番目に多い。
 その記録の(14)に駒形社:伊那市長谷非持山とあるが、国土地理院の二万五千分の一地形図には、三峰川支流山室川に南東方から注ぐ駒形沢の名前を読むことができるだけで、神社や祠の存在はほとんど忘れられている。
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旧県道にかかる橋の下流側の橋柱に「駒形沢川」の表記。

 かねてより伊那市長谷には東(甲斐)駒ヶ岳の信州側の登山口としての歴史もあり、駒形神の祀られている神社が存在するであろうとは思いつつ、改めて資料を見ることもなかったが、機会があって2003(H05)に発行された長谷村誌第一巻民俗編・人物編を開くと、第7章説話第1節史話の部分に「駒形の森」(比丘の長者)という項がある。

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西(右)へ流れる駒形沢の右岸尾根に「駒形の森」があったと思われる。手前はタカトウコヒガンサクラが満開。

 比丘の長者の伝説、牧場の存在、馬の病気や安全を駒形権現大権現を祀り祈願のため近世まで駒形神社のお祭りがあった。そののち樹齢300年余の巨木の茂る森のみが昭和期まであったが、第二次世界大戦時に供出させられて、今は県道改修による「駒形新道」、駒形沢の右岸尾根に昭和42年再建の「白山天女命」の石碑だけとなり、非持・非持山地区の役員有志による細やかなお祭りが続けられている。
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「明日を拓く 駒形新道」県道改修記念碑。

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右岸尾根には、約20基の馬頭観音などの石像佛に囲まれて、中央に昭和42年再建とある石柱(下の写真)。

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「白山□女命」との刻字が読めるが、「しらやまひめのみこと」のことと思われる。

旧県道には「駒形沢橋」も現存し、尾根に上がると四等三角点863.3mも見つかった。
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上流側の橋柱に「駒形沢橋」の表記。
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863.3mの四等三角点を確認。

 さて、この一帯(中非持から非持山)を歩いてみると、山室川左岸の800~900mにかけての緩やかな段丘状の地形に耕作地(水田や畑地)が広く維持されている。地形図を見ながら改修された県道「駒形新道」の山側へも足を運んでみると、かつてはかなり広い耕作地があった思われる形跡が残っている。尾根筋の見通しの良いとこらからは、はるかに中央アルプスの西(木曽)駒ヶ岳連峰を望むことができる。

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西(木曽)駒ヶ岳の雪形を遠望。

 この地域を歩くには、伊那市高遠町から徒歩往復約2時間~2時間半、高遠町の東の山塊である月蔵山1192.0mを一回りするように歩くと約3時間半~4時間くらいでしょうか。途中には高遠ゆかりの大奥女中「絵島」の史蹟(屋敷・屋敷跡・墓・遠照寺・池上家位牌堂)などもを合わせて廻ることもできる。

足柄古道 [日々散策]

                        田口計介
 4月27日、丹沢山塊の矢倉岳(870m)から足柄峠(759m)へ下り、足柄古道を歩いた。
 当日は矢倉岳登山口で男女3人、山頂で男性1人と山で会ったのは4人のみ。
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 足柄峠は奈良時代に開かれたメインロードで、徳川家康が箱根峠を開くまで続いた。そして矢倉沢往還となる。

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 古道は道幅が1mくらい、ゴロ石を散りばめる。
 足柄万葉公園には、万葉集の防人に関わる和歌が多数。東北のおのこ(防人)がこの道を歩き、遠く壱岐、対馬まで出かけたのである。

白銀の荒島岳 [日々散策]

                        栗山謙三

4月2日に地元のハイキングクラブで青春18切符を使い福井の里山に行って来ました。CIMG2091.JPG
白銀の荒島岳遠望

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まだカタクリ&福井市内の足羽川(あすわがわ)の桜も早かったのですが、
白銀の白山など展望できました。
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