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駒のつく神社を訪ねる(10)~青梅市根ヶ布・虎柏(とらがしわ)神社 [日々散策]

北村健治

 創建時期は不詳。崇神天皇の御代との伝説がある。1870(明治3)年脇殿に祀られていた虎柏神を正殿に遷し、諏訪上下神(建御名方命・八坂刀売命:女神)を東の相殿として、虎柏神社の旧称に復した。延喜式内社(論社)に比定される古社で、延喜式神名帳には武藏国多摩郡八座の一座に数えられる、調布市佐須町の虎狛(こはく)神社との関係が定かでない。駒ヶ岳ファンクラブ発行の改訂「全国駒名の神社リスト」に掲載されているが、調布の虎狛(こはく)神社ほどの「駒」「高麗」との関わりが少ないと思われる。
 主祭神は、大歳御祖信神(おおとしみおやのかみ)、惶根神(かしこねのかみ:女神)である。青梅市根ヶ布に鎮座し、霞川水源地帯にあって、下流域の水田地帯で耕作が始められると人々はその水源に耕作の神を祀ったのが始まりと考えられ、古くから周辺(霞・小曽木一帯)の農民に信仰されて、五穀の豊饒を祈るようになった。
 940(天慶3)年平将門征伐軍の源経基が諏訪上下神を勧請し、永正(1504-1521)年間勝沼城主三田氏宗により再興されたと伝わる。
 1588(天正16)年浅野長政が除疫神(牛頭天王)を勧請したと伝えられ、これが西の相殿の八雲神社(須佐之男命・事代主命)である。1590(天正18)年正殿に諏訪上下神、東の相殿に除疫神を祀り、小曽木郷の惣社を号して、江戸時代には諏訪明神・諏訪宮と称し、今でも「お諏訪さま」と通称される。1591(天正19)年には徳川氏から朱印地三石を下賜される。   
 現在の本殿は、江戸時代中期の1734(享保19)年、多摩郡青梅村大柳の張海次郎兵衛が棟梁を務め、同郡羽村根岸の大工宮川善右衛門らが工事に携わり建立されたものである。形式構造は三間社・切妻造・茅葺きで身舎(もや)の規模は桁行(間口)4.877m・梁間(奥行)2.940mである。現存する棟札からは、江戸時代の1777(安永6)年に修理が行われていることが分かる。その後前記の明治初年における祭神の配置替えがあって、1873(明治6)年郷社に列した。1892(明治25)年に階段の修理と屋根の葺き替え、1906(明治39)年に屋根の葺き替え、1909(明治42)年には覆舎の造立が行われた。保存状態は良好である。
 この本殿は、公儀普請の建物を除くと、東京都内でも数少ない三間社の遺構の一つで、建築年代も三間社としては古い時期に属し、装飾的な要素も控えめで全体的に古式を伝える貴重な神社建築である。

都指定有形文化財〔1971(昭和46)年3月29日指定〕 
 境内の末社には高峯神社と稲荷神社が諏訪神と同じく源経基が勧請したものであり、もとは西の相殿に祀られていたとのことである。藤原氏の祖先である天児屋根命を祀る藤原神社があり、1573-1590(天正)年間に元宮司であった宮崎氏中興の右エ衛門太夫が藤原姓であったことによる。
 江戸時代以降に寄進された石造物や古木のある境内林は、江戸・明治期の旧態を留めている宗教的神秘性のある独特な空間を形成している。

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門前に建つ記念塔

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参道入口

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参道は大きく右へ曲がって本殿を望む

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都文化財説明板

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拝殿と覆舎に保護されている本殿

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拝殿の天井

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長い参道には、石灯篭

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素晴らしい境内

 年間行事として、歳旦祭・節分祭・祈年祭・八雲祭・例大祭8月26~28日・高峯神社例祭・七五三・新嘗祭・おかまじめ頒布・大祓式などがあり、千百有余年にわたり地域から崇拝され親しまれている格式と歴史のある神社であるが、中世以降、「おすわさん」として、霞川・黒沢川流域の鎮守様として親しまれている。江戸期の「玉川泝源日記」には「諏訪明神礼祭七月廿八日は近郷の若人ども集りて角力を興行して、東西に分れて取組みて勝負あらそえるを見物群集せり」とある。
 交通は、JR青梅線東青梅駅から小曽木・成木方面へ徒歩で約20~25分。バスの便あり。バス停名(都バス)などもいまだに諏訪神社である。

参考資料:平成18年作成の神社資料と青梅市誌や『ウィキペディア』による。




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