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登山を楽しくする科学(Ⅸ)報告 [山の話題]

フォーラム― 登山を楽しくする科学(Ⅸ)

日時  3月11日(土)13時~17時(受付12時30分~)
場所  立正大学品川キャンパス11号館1151教室
主催  日本山岳会 科学委員会

演題  
①「修験道と霊山・霊場」  
   日本山岳修験学会会員 松本敏夫氏
②「シカとオオカミが作る生態系―狩猟者はオオカミの代役となり得るかー」
   立正大学地球環境科学部教授 須田知樹氏
③「山のトイレ改善・糞闘の記」         
   特定非営利活動法人日本トイレ研究所理事 上 幸雄氏

報告 仲徳治

①省略
②「シカとオオカミが作る生態系―狩猟者はオオカミの代役となり得るかー」
 鹿の木々を食い荒らす蝕害は最近聞く様に為り色々な要因により鹿が増え木を食い荒らす困った事と思っているが狼を放し毒には毒をもって制すると聞いてどの様な事か聞いてみた。
 須田知樹氏は学者らしく検証資料と数値計算をもってしての説明は非の打ち所のない論理展開であった。
 要約すると1905年(明治38年)に狼が絶滅して以来鹿の生存数はハンターの努力にも拘わらず50万頭から現在300万頭にまで増え、植生、農作物への被害は看過出来ない状況に至っている。その間、法を改正しハンターの捕獲頭数も増えたが止めるのは至難の業である。仮に人による捕獲頭数を増やしても狩猟では自然の荒れた森林と下生え豊かな森林は再生出来ない。
 先ず死体の処理で狼は全部食べて仕舞う。人は下界での処理には限度があり、かなり分文放置せざるを得ない。放置された死体の表面は微生物によって分解されるが酸素の届かない内部はいつまでもそのままで自然に戻るのに想像以上の年月を要する。人による狩猟の地形は限られ、鹿を追い込まなければならない。狼の狩猟は地形に拘らない。等、狼を入れる事によって多様な生物環境の再生が可能であろう。それには先ず数百頭狼を復活させ個体数の増加を待ちながら、ハンター捕獲の両面で鹿の生存数をコントロールしたい。それが人が狼より被る被害より価値が高いと結んでる。
 それと共に都市化と人口減少社会でほ乳類の都市近辺への分布が広がって来た。この先都市住民と野生動物の共存を真剣に考える時が間近に到来している。
 聞きながら僕の考えた事は原発の事。専門家が日本の原発は100点と言いながら地震と津波で簡単に壊れた。そこを問われると「想定外」で逃げて仕舞った。残ったのは数十年先までの大きな負債。専門家と称する人の言う事は100点で無いと言う事。正答の誤びょう。木を見て森を見ずで無ければ良いがな、と思いました

③「山のトイレ改善・糞闘の記」
 トイレの問題は人間生活の基盤でありながら放擲されてきた。外国でも同じです。フランスのベルサイユ宮殿はトイレが非常に少なく臭いが酷かったとか。それが香水を発達させた要因らしい。街の中ばかりで無く自然、取り分け山の中では自然の大らかさに委ねていた。それも限度に達して汚染が酷くなり対策が求められる。改善に粉骨砕身四半世紀その解決に身を投入された。上さんの実践の報告です。

公衆トイレ改善
 学生時代より環境及び自然に興味を持つと共に海外に眼を向けて居られた由。一時海外の漁業関係の仕事に従事されていたが、帰国後は公害関係の専門誌で公害裁判、環境問題に取り組む中でゴミ・トイレの改善に着眼。山でのトイレが環境問題の延長戦との認識を持たれトイレットピア協会を立ち上げ外国まで広くシンポジュウムを開催。トイレ整備の活動を行い、実践面では、道の駅実験プロジェクト に参画。その目的の一つトイレ整備を15年に渡って1000件設置してきた。残された学校、災害時、途上国、そして山等の自然環境下のトイレの改善に取り組んだ。

山でのトイレの改善 
「山のトイレ爽やか運動」を田部井氏を代表にして展開。アンケート調査等を行い山小屋でのトイレの改善は焦眉である事が明らかになり、自治体、国にも働きかけ、環境省からの補助金等で現在かなり整備されてきた。真に昔日の思いがする。
 今後の問題点として山のトイレは都市のトイレにはない、独自の困難さがある。利用客の少ない山小屋では延々と進んで居ない。山のトイレは市場が狭くTOTO、INAX等の大手メーカーの関心は皆無で高度処理技術の開発が中々進まない。トイレが出来たとは言え、その廃棄物最終処理に多大の労力が掛かる等があり、それらの負荷を減らすためには、本来の自己処理原則である抜本的対策として入山時に携帯トイレを持参し、それを持ち帰る必要がある。これが上さんの提言である。
 実践から出た肉声で非常に迫力のあった講演でした。只携帯トイレは今まで持ち帰る習慣が無かったのでどの様にして身につける意識を自分が持てるか心許ない。帰りに携帯トイレを戴きました。

しだれ桜見物 [日々散策]

いわき市のしだれ桜
                        竹中昌子
 4月12日に、いわき市小川町の諏訪神社の「しだれ桜」を見に行きました。以前望年会登山を計画したものの、雨天で中止した『二ツや山』に行く途中にあります。

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 満開一歩手前ですが、ひとつも落花がないのも、見応えがありました。小さな神社の境内ですが、年々花も、見事になっているようです。栃木ナンバーの大型観光バスも来ていてびっくりしました。

駒ヶ岳ファンクラブ2017総会・4月例会 [会員連絡]

4月11日(火)18:30より駒ヶ岳ファンクラブ2017総会・4月例会が
いつもの新橋・鳳龍クラブで開催されました。
会計報告、監査報告、会計新体制が報告、審議の上、了承されました。
参加者は15名でした。
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また、2017年度のイベントの内、
06/18の瑞牆山、07/11-12の苗場山、06/24-25の大駒、09/03-04越後駒について
それぞれ紹介がありました。

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例会は、参加者全員の近況報告など、いつもながらの流れでした。
二次会へは10名が参加。

馬はいつ渡来したのか [駒・馬の話]

海を渡って馬が来た
                        田口計介
 我が国の馬は朝鮮半島から海を渡って来たことを疑う人はいない。それなら、いつ頃、どんな方法でやって来たのであろうか。古い文献では、縄文時代や弥生時代に日本列島に馬がいたとの記述があるが、間違いである。発掘技術の進歩によって、馬とされる従来の年代の特定はことごとく覆されている。
 1,8万年前に日本列島がユーラシア大陸から分離した後、縄文人(前14,000年頃~前4世紀)は海を介して大陸との交流を始めていた。多分、その手段は筏か丸木船であろう。
 大陸との交流の明確な最初の資料は、『後漢書』(范曄・はんよう編、成立5世紀)に記述されている、それは後漢の光武帝が建武中元2(57)年、倭の使者に下した「漢委奴国王印」である。107年にも倭国王が漢(安帝)に使者を出している。次は、邪馬台国の女王卑弥呼が239年、243年に、壱与が247年に魏へ使者を派遣した。これらの使者がどんな船に乗っていたかの資料は一切ない。
 さて、馬が日本列島に来たことの確認は馬の遺体と馬具による。馬の遺体では、最も古いのは甲府市塩部遺跡で下臼歯24点、切歯点などが出土していて、4世紀第三4半期と報告されている。馬具ではいずれも5世紀始めとされる、熊本県合志市の上生(うぶ)上ノ原3号石棺墓の鑣(くつわ)、同じく八反田2号墳の鑣、兵庫県加古川市の行者塚古墳からの鑣と鏡板である。八反田2号墳からは馬歯も出土している。
 多くの研究者は馬の渡来を5世紀のはじめとしているが、渡来地からの移動(甲府市、合志市、加古川市へ)時間を考慮すると4世紀の半ば以前の渡来とするのが妥当であろう。
 
 次は、海を渡る船である。前述したようにどんな船であったかの資料はないが、各地で出土した舟型埴輪などを参考に、船首・船尾や側板などの部材を組み合わせた準構造船を復元・製作して、航海を行っている。
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 この航海3例は古代船としてのトレースは成功したが、漕ぎ手以外に乗員を載せていなくて朝鮮との往復に使えるとは思われない。実際は、漕ぎ手以外に使者とその従者や中国王朝への貢ぎ物、食料、水を満載できる船であったはずだ。
 筏船で航海を行った報告がある。
・1972年10月 長崎大学、対馬―→唐津、対馬の藻刈り船を改造、漕ぎ手4人と馬1頭、1ノット
・1997年6月 中国浙江大学と韓国東国大学外、中国舟山島(15日)―→韓国仁川(7月8日)、長さ10m、幅5m布製の帆付、漕ぎ手10人
・2016年7月 国立科学博物館・3万年前の人類到来の再現、沖縄与那国島(17日)―→西表島(18日)75km、長さ6,4m、幅1,3m、台湾産の麻竹、「どうなん」号、「シラス」号漕ぎ手各7人乗り、速度2km/hr

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 以上のような限られたデータから推論すると、当初は朝鮮半島からの馬の渡海方法は漕ぎ手5人の2セット、馬2~3頭、水と食料を載せられる竹製の筏であろう。
 諫早直人氏によると「『日本書紀』の記述や石上神宮に伝わる七支刀の銘文から、百済は4世紀後葉の近肖王代(在位346~375年)に、加那諸国の一つである卓淳国を介して倭との通行を開始した。そのような国際環境の変化を背景として、馬匹の輸入開始したのであろう」としている。ほぼ200年後の554年には倭は百済救援のために朝鮮半島に出兵したが、その戦力は兵士1,000人、馬100頭であった。100頭の馬が海を渡ったのである。

汗血馬(追加) [駒・馬の話]

                        田口計介
 汗血馬について以前報告したが、その後私の資料に加藤九祚先生の著『シルクロード文明の旅』があり、その記述に岩絵の汗血馬があった。是非この岩絵(加藤先生撮影)の馬も紹介します。

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アラワンの「汗血馬」の岩面画。フェルガナ盆地(大宛)の東側にあり、考古学者ベルンシュタムは『史記』の汗血馬をあらわすものと考えた。これは岩面画を3週間かかってコピーしたもの。実物の大きさは、雄の場合、耳の間から尾のつけ根まで113センチ、脚先から背中まで93センチ。――加藤九祚『シルクロード文明の旅』

パジリク古墳群の「乗馬する男」 [駒・馬の話]

パジリク古墳群の「乗馬する男」
                        田口計介
 1930年モスクワで、パジリク古墳の第一次発掘(1927年、隊長S・I・ルデンコ)の出土品を見たとき梅原末治(京都大学名誉教授、1893~1983)は「一見古代の遺品とするに躊躇せしめる程であった」と述べている。考古学の泰斗・梅原博士が第二次(隊長同じくルデンコ、1947~49年)の発掘品「乗馬する男」を見たならば、どんなコメントを残したであろうか。

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 パジリク古墳群はロシア連邦、南シベリアのアルタイ共和国ウラガン郡、アルタイ山脈の西側の山地のステップ性盆地(標高1600m)にある。この古墳群の埋葬者はスキタイ・サカ族の有力者であった。この地方は永久凍土滞ではないが、古墳を築造した時期、紀元前3世紀前半は一時的に小気候的条件(ミクロクリマート)で、凍結した古墳群の遺品を保護した。また、こんな辺地の古墳にもかかわらず、第2号墳を除くすべての墳墓(大型4基、小型9基)が盗掘されていた。幸いなことに彼らは金、銀製品などを盗んだが多くの貴重な陪葬馬等の遺品が残された。
 馬は来世に送られる埋葬者の陪葬であり、闘斧で頭蓋を打たれて殺されていた。これらの馬は背の低い普通の馬と並んで、パルティアやバクトリアの優秀な軍馬に劣らない良種の温血の馬もいた。陪葬馬は兵卒の古墳では2~3頭、貴族の墳墓では最高16頭であった。これらの馬はすべて去勢馬であり、牝はいない。馬の出土の意義は、装飾品を伴う鞍、馬勒などから当時の生活状況を知ることができる。

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「乗馬する男」

 超目玉の圧巻は同じく第5号墳の槨室壁の掛け毛氈(フエルト)に織り込まれた「乗馬する男」である。この毛氈はラクダの毛と羊毛の組合せであり、1平方cmで23本×23本という丈夫な織物であった。世界の絨毯業界では、この絨毯を世界最古だとしている。
 また、毛氈の「乗馬する男」、一見中世、西洋の武具を脱いだ紳士にも見てとれる。だが、日本では縄文時代晩期、中国では秦、インドではアショーカ王のころの作品である。

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第5号墳出土の馬車

 第5号墳の馬車は轂(こしき、70cm)、34本の輻(や、1.5m)を持つ2頭立ての四輪車である。
 パジリク古墳群などアルタイ、シベリアからの出土品は、すべてサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に収納されている。嬉しいことに、美術館の展示ヤードの考古部門にはパジリク室があり、ここで紹介した出土品をすべて見ることができる。

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加藤九祚先生

 わが国でパジリク古墳を調べると、その資料の少なさに驚く。その少ない資料のほとんどは加藤九祚先生(1922~2016)の訳書に辿りつく。加藤先生は国立民族学博物館の名誉教授であり、シルクロード研究の国際的大家である。本小文もパジリク古墳の第1次、第2次発掘隊長のルレンコ(1885年生まれ)の論文「パジリク古墳の秘宝」を加藤先生が訳されたものを下敷きにしている。蛇足ながら、加藤先生は小生の飲酒、特にウオッカの師であった。

瑞穂町「花多来里の郷」 [日々散策]

カタクリの群生
                        北村健治
 4月5日昼過ぎに、自宅を出て、瑞穂町元狭山神社を訪ねるために3時間ほど、散策しましたが、途中で瑞穂町「花多来里の郷」訪ねまして、ほぼ満開のカタクリを観察してきました。

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保護地区内一面に咲き始めたカタクリ群落

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株立ちになったカタクリ

 白花の珍花も3輪もあって、世話役の地元のおじさんおばさんも大騒ぎをしていました。JR箱根ケ崎駅から20分ほどで狭山神社の北側にあります。今週来週くらいは、見ごろです。

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白花カタクリ

 このあたりでは各種のサクラも咲き始めて、多摩川べりや狭山丘陵などの散策には、実に良い時節と言えるでしょう。
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咲き始めたソメイヨシノ

ニリンソウがきれい [日々散策]

春ですね!
                        谷 和代

4月2日、鷹取山から三浦郡葉山町の境橋へ散策。
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ニリンソウ

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鷹取山の磨崖仏とハナダイコン

盛金富士のイワウチワ [日々散策]

盛金富士(340.7m)
                        谷 和代

3月29日 水郡線下小川駅下車、盛金富士にイワウチワの花を見に行きました。
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久慈川からの盛金富士

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盛金富士山頂

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山頂付近のイワウチワ

山頂付近にイワウチワの群落がありましたが、まだ早かったのか花は少ししか咲いていませんでした。
山頂からは、久慈川の向こうに奥久慈男体山を見ることができました。

春の低山徘徊・南保富士(728m) [登山報告]

春の低山徘徊・南保富士(728m)
                        木本桂春

 今年になって標高1000mを越える山には登っていません。天気も良いので今日も午前の散歩に出かけます。
 取付の付近は雪が殆どありません。300m程上からは残雪が出てきます。今日の雪はクラストしてカチカチです。グイグイと長靴が鳴ります。

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500m付近からの黒部奥山の山並みです。

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頂上からの展望です。北に大鷲山(馬場山)と青い日本海が見えます。

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東には真っ白な初雪山と手前は大地(おおち)です。大地は山名です。
        
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少し南に目を向けると、木々の横から白馬岳の裾と白馬旭岳です。
        
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南面の黒部奥山には剱岳から毛勝山が見えてきます。
        
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さらに西に目を転じます。毛勝山、駒ヶ岳、北駒ヶ岳、僧ヶ岳です。
中央の北駒から黒部峡谷に落ち込む尾根に駒の雪形があらわれますが、今年はまだ出ていません。

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そして西面の眼下には黒部川扇状地と青い富山湾が広がります。
右下から左へ走るのが北陸新幹線です、右が東京方面、左、金沢方面です。所要時間2時間28分。
ちなみに江戸時代の加賀―江戸間の大名が参勤交代に要した日数は平均12.5日(300時間)でした。
          
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帰りに道際で見つけた花一輪、ショウジョウバカマです。
4月2日午前の散歩でした。
           
           

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