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春の駒の頭 [登山報告]

春の駒の頭
                        木本桂春

 3月24日に魚沼川の支流佐梨川の芋川沢源流の山・駒の頭(標高680m)へ向かいました。車で小滝沢出会いまで入ります。雪はこの辺りで3m以上あります。夜の入り口は小雨、25日朝方、小雪。

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 標高差450m、距離3km、これなら老残でも行けると判断。左の沢からブロック雪崩の斜面を、カンジキを付け尾根右上へ、登ると四方が見えます。

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 狭い雪尾根を登っていきます、両サイドの谷の斜面はブロック雪崩が多く、不安定で、豪雪の越後の重みを感じます。

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 400m位から雪も安定します。前方に駒の頭が見えてきました。

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 450mの雪尾根の崩壊部分です。雪の中に岩が出ている部分もあります。

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 500m付近から見た頂上です。雪が多くなり、厳しいラッセルです。
 新雪が吹き溜まりでは40cmを越えます。頑張って頂上手前のピークの間に立ちます。細い雪尾根が頂上に続きます。上まで40mザイル・2ピッチ位です。

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 ところが尾根の取付で、新雪に隠された雪の割れ目に落ちてしまいました。幸い右手が出て、ザックが引っ掛かり、下には落ち込みませんでしたが、足元は宙に浮いています。ザックにピッケルが付いていたのでそれを使い、前方に打ち込み何とか雪下の灌木を引きずり出して、ヤット脱出しました。この間30分、疲労困憊。座り込み休養。この後やばそうな雪尾根にピッケルを打ち込み、頂上に立ちます。

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 頂上、左方向には駒の頭と尾根つづきの笹倉山、その左に越後駒ヶ岳。目で見えたのですがカメラはいうことを聞いてくれません。

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 右にはこれも尾根つづきのトヤの頭です。(指が入ってしまいました)。

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 頂上からバックステップで雪を蹴り込み、落ち込み過所まで降り、再び、カンジキを付け下山です。今度は雪が腐り始めて、新雪は表層雪崩のように足元をすくい、簡単に下らせてくれません。最後のブロック雪崩の斜面は200m程をシリセードでやっと林道着。
 久々に骨のある駒に登らせてもらいました。
 反省:やはり相棒がいりますね、そうすれば、穴からの脱出も楽勝だったと思いました。

汗血馬 [駒・馬の話]

汗血馬
                               田口計介
 
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 汗血馬という名前の馬をご承知の方は、超シルクロード通である。また、ウマの博識である。
 汗血馬が最初に登場するのは、中国の最初の正史である『史記』である。『史記』は司馬遷(bc145/135~87/86)が、黄帝から前漢の武帝までのことを紀伝体で記述した史書であり、紀元前91年頃に完成した。
 その「大宛列伝」に「大宛在匈奴西南。在漢正西。去漢可萬里。其俗土著、耕田、田稲・麦。有葡萄酒。多善馬、馬汗血。其先天馬子也。」とある。この意は「大宛は稲、麦、葡萄を作る農業国だが、天馬と称される馬の子孫で血の汗を流す優秀な馬が多数いる」である。大宛とは現ウズベキスタン東部、キリギスの西部地方一帯のフェルガナである。
 漢の武帝(bc140~86)は大月氏に使いした張騫の報告により汗血馬を知り、大宛に汗血馬の譲渡を求めた。最初は通商で、2度目は弐師将軍の李広利が武力で、いずれも失敗した。3度目は再度李広利が6万の兵力で大宛を攻め、弐師城にいた駿馬(汗血馬)数十頭、中等以下の牡牝三千余頭を獲得した。
 さて、汗血馬とはどんなウマなのか。また『史記』に書かれた弐師城、郁成城、『漢書』(後漢の班超の撰で、82年頃成立)にあらわれる貴山城とはどこであるのかなどが、洋の東西の大学者の間で議論され続けてきている。
 汗血馬の血の汗については、フランスの中央アジア研究者のリュセット・ブルノが「馬の背中のあたりの皮膚の下に寄生し、2時間くらいの間に破裂して出血する小さな腫物を作ってしまう寄生虫が原因」と報告(『絹文化の起源をさぐる』、原著『History of the Formen Han dynasty』1938)している。
 フエルガナ一帯の汗血馬は、ウマの現世種の祖2種のタルパン(20世紀初頭に絶滅)のうちの高原系で毛が短くて軽く早いタイプに属すとされ、中央アジアから中近東に拡散してアラブ馬となり、さらに進化させられたのがサラブレットである。
 汗血馬を想起させる馬は中国甘粛省武威雷台出土の「飛燕を踏む銅奔馬」であり、トルクメニスタン原産の國章にのる愛称黄金の馬・アハルテケ(体高144~163cm)が汗血馬に最も近いとされている。
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 弐師城、郁成城、貴山城の位置であるが、「大宛の属邑大小70余城」、「漢と大宛の戦闘四十余日、大宛の勇将が漢に捕えられ、大宛の兵は中城に入る」、「漢の上官桀は、郁成城を攻め落とし、郁成王は逃れて康居に至る」(『史記』)、「大宛国は、王が貴山城に治し」(『漢書』)などの記述がある。一般に弐師城と貴山城は同一と理解されているが、弐師城では大宛王母寡(もか)は漢に降伏するために部下の貴族により首を切られ、次の漢が据えた王昩蔡(まつさい)も同じく殺されている、貴山城主は母寡の弟の蝉封(ぜんふう)であり、どうも二つの城は時間を異にしていて同じではない。貴族との対立で、蝉封が居城を属邑70余城の一つに、弐師城から貴山城に移したと思われる。
 各研究者の三つの城の比定地は
 弐師城 マルギラン(藤田豊八、長澤和俊)
     コーカンド(リュセット・ブルノ)
     玄奘が訪ねた窣堵利瑟那(ストリシナ)=Uratube(白鳥庫吉)
 育成城 オシュまたはアクシカト(長澤和俊)
 貴山城 ホージェント(桑原隲蔵)
     カーサーン(白鳥庫吉、藤田豊八)
などである。

駒のつく神社を訪ねる(2)~昭島市大神町の駒形神社 [日々散策]

昭島市大神町の駒形神社
                              北村健治
(先にupした記事を補足改訂し以下に替えます。北村)

 『駒ヶ岳学講座シリーズ(1)全国の駒名の神社リスト』では、東京都の5番目に記されている。昭文社発行の『でか字まっぷ東京多摩』には古刹観音寺のみが記されているが、同社発行の『エリアマップ東京区分地図』の第35図昭島市をルーペで見ると、大神町三丁目に観音寺と並んで、多摩川左岸中位段丘崖の上に駒形神社と記載されている。

 3月23日(木)晴天、ソメイヨシノの蕾の膨らみを観察しながら、9時半ごろ昭島駅南口を南へ向かって歩き始めた。日枝神社の辺りで緩やかな立川(上位)段丘崖を感じながら、八高線踏切を渡り、奥多摩バイパスを越えると、間もなく観音寺と駒形神社の木立の北側の横町にたどり着いた。昭島駅から真南へ約2km、徒歩30分ほどである。

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 南側の奥多摩街道に回ると、銅装の立派な神明鳥居と、脇に「昭和三十七年九月節句・当所氏子小室豊造」と刻字された御影石が建っている。隣の観音寺と同様の金網製垣根に囲まれた広い境内には、ケヤキ・サクラ・イチョウ・シラカシ・サワラなどの古木に守られるように、灯篭・幟立・狛犬各一対(平成元年一月吉日建立)ほか神明造りの拝殿本殿、数社に及ぶ合祀諸宮などが配置され、神輿庫、山車庫、倉庫、社務所を兼ねた地区自治会館らしい建物、トイレなども完備されている。現在の例祭は7月下旬の日曜日とのこと。
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 広い境内中央南向きの拝殿には「駒形社」の額、その奥に覆屋のある本殿が鎮座する。
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 本殿の右手奥には、御嶽神社、金比羅宮・第六天神社・天満宮・稲荷神社・津島神社を覆屋付きで合祀し、本殿西側には朱赤の鳥居の奥に稲荷大明神が祀られ、脇に奉納「水田一反四畝十六歩(14アール余)昭和14年2月初午・当所小室克博豊造」の石碑、南・榛名山大権現、東・秋葉山大神、北・愛宕山大権現、西・駒大明神稲荷大明神と刻字された頭のない古い石柱が残っていた。
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 他にも境内には古い石碑か石柱などの破片も見られる。

 この神社は、水沢市の駒形神社を惣社として、大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)・小彦名命(すくなひこなのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神とする稀有な存在であるが、惣社同様に馬を保護し、馬の病気を治癒させる霊験により人々の信仰が厚く、江戸時代には旧大神村の鎮守社でもあった。創建年代は不詳(板碑などから鎌倉期?)ながら、当社の前身であった神明社は、永禄12(1569)年武田軍の滝山城攻めの折に東勝寺(観音寺の前身)とともに兵火で焼かれ、天正18(1590)年(棟札より)、慶長8(1603)年権大僧都広栄法印による観音寺創建時に守り神であった駒形社も創建され、慶長18(1613)年多摩川の野火で焼失し、元禄13(1700)年再建、宝暦12(1762)年修復、慶応2(1866)年本殿修復、の記録がある。
 明治元(1868)年神仏分離令により、観音寺と分離され村人管理となり、昭和5(1930)年には拝殿が再建され、昭和50(1975)年神輿復元・祭礼振興会結成、昭和51(1976)年駒形囃子連結成、昭和52(1977)年本殿・拝殿をの修復、平成11(1999)年山車新造、平成13(2001)年万灯神輿新造、平成18(2006)年から祭礼灯篭を百十数基新設、など神社行事もますます盛大となり現在に至る。観音寺に遺る絵馬には、「奉納駒形大明神」文久元(1861)年の記録があることからも武州西部に多くの信者がいたものと考えられる。

参考資料:『昭島市史 附編』 昭島市史編さん委員会 昭和53(1978)年11月1日発行
    :「駒形神社」の概要 などを参考とした。



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